日時 | 1月14日(日)14:00~16:00 |
場所 | 横浜みなと博物館 訓練センター第1会議室 |
講師 | 三木 綾(横浜みなと博物館学芸員) |
受講生 |
42名(4年生5名、5年生19名、6年生17名) |
横浜は東京(23区)をのぞくと日本で最も人口の多い都市です。しかし、江戸時代の中頃まではわずか100戸程度の小さな漁村にすぎなかったそうです。ではなぜこんなに大きな都市に成長できたのでしょう。その理由を考える時欠かせないのが、港の存在です。江戸に近く、早くから外国に開かれた横浜は、日本の玄関として大きく発展してきたのです。
今回は横浜みなと博物館学芸員の三木綾先生と一緒に、横浜港が私たちにとってどう身近で大切な場所なのかを探ってみました。
横浜みなと博物館とは
今日は横浜みなと博物館で授業をしますが、この「みなとみらい地区」は、横浜の中で一番古くて一番新しい場所です。今日の授業でそのことがわかるはずですので、覚えておいてください。
日本には約5900の博物館があります。博物館には必ず学芸員がいて、それぞれのテーマに沿って資料の収集や保管、展示、調査研究を担当しています。いわば博物館の中身を作っている存在ですが、一番大事な仕事は100年、200年後まで資料をとっておくことです。私はこの横浜みなと博物館の学芸員になって18年目です。この博物館は横浜港をテーマにした博物館です。「歴史とくらしのなかの横浜港」をメインテーマに、調査・研究や資料の収集・保存、展示、公開などを通して横浜港について知り、考え、楽しむことができる博物館を目指しています。開館は平成元年(1989年)。開港150周年にあたった2009年と昨年(2023年)の2回、リニューアルを行いました。
港ってどんなところ?
港とは、波を防ぎ、船が出入りして荷物の積み下ろしができるようにつくってある場所のことです。船は港があるから安心して航海ができます。港がないと船は走れません。日本には貨物の積み下ろしを目的とした港が約100か所あります。横浜港はその中で名古屋港、東京港に次いで日本で3番目に取扱量が大きい港です。
さて突然ですが、みなさんおすしは好きですか?ここに、ある回転ずしチェーンが公開しているすしネタの原産地一覧表があります。これを見ると、ほとんどのネタが外国から来ていることがわかります。実際、今日本で流通している海産物のうちエビは90%、サーモンは60%、マグロは半分が輸入品です。そしてこうした産物は船で運ばれてきます。
2015年に日本でハンバーガーやポテトが食べられなくなるかもしれないという事態が起きました。アメリカのロサンゼルスに日本向けの輸出品をたくさん積み込むロングビーチという港があるのですが、そこの港湾労働者たちがストライキをして、その影響でジャガイモや牛肉などが日本に届かなくなったのです。港が機能しないと、私たちの生活が立ち行かなくなるという好例ですね。
わたしたちの生活と船と港
食べるもの、着るもの、それからエネルギーなど、日本は多くのものを外国から買っています。海に囲まれた日本は船と飛行機でそれらを運びます。船で運ぶ貨物は日本の貿易品全体の99.6%にものぼります。
では横浜港の貿易品と相手国はどうなっているでしょうか。2020年の資料でみると、輸出では自動車が完成品(32.4%)と部品(12.8%)を合わせて半分近くを占めていて、産業機械(9.0%)が続きます。逆に輸入は原油(16.5%)、液化天然ガス(16.2%)、製造食品(4.8%)の順で、エネルギーの割合がとても多いですね。液化天然ガスは12年前に輸入量が急増しました。東日本大震災に伴う原発事故の影響で、火力発電への依存度が高まったからです。このように輸入される品物や量は、その時々の社会情勢で入れ替わります。相手国は、輸出では中国、アメリカ、オーストラリア。輸入ではサウジアラビア、中国、オーストラリアの順です。
貨物はコンテナで運ばれる
貨物はコンテナという箱に入れて運ばれます。コンテナは長さが6~12メートルほどで、積み込むものによって一般貨物用のドライ、液体を運ぶタンク、天井が空いているオープン、冷凍品用のリーファーなどの種類があります。
横浜港にはたくさんのふ頭がありますが、広いのはコンテナを主に扱う本牧、大黒、南本牧などのふ頭です。中でも南本牧ふ頭は横浜スタジアム84個分の広さがあり、岸壁の深さが18メートルもあるので、世界最大級のコンテナ船もとまれます。今入港している船で最大なのはパナマの「MSC ISABELLA」という、コンテナを2万2000個も積める船です。ランドマークタワーを横に倒し、さらに30メートル伸ばしたぐらいの大きさです。ふ頭にはコンテナの荷下ろしのために、これまた世界最大級のガントリークレーンもあります。
横浜港はガスや石炭などのエネルギーから木材、大豆・麦・塩などの食べ物まで何でも扱えて、旅客船も入港する大きくてにぎやかな港なのです。
みなさんは「横浜市歌」を歌えますか?1909年に開港50周年を記念して作られた歌ですが、2番の歌詞に「されば港の数多かれど/この横浜にまさるあらめや」とあります。横浜港はその歌詞の通り、素晴らしい港なのです。
横浜港が開港したのは今から165年前の1859年。最初の近代的な港湾施設として大さん橋ができたのは120年前、新港ふ頭が完成したのは110年前のことです。こうした施設が現在のみなとみらい地区になっています。横浜で一番古い港が今では一番新しいまちになっているというわけです。
災害と港
元旦に能登で大変な地震災害が起きました。道路が寸断されて、生活に必要なものが運べなくなりました。そんな中、福岡から船が支援物資を積んで被災地に向かいました。能登半島は船でのアクセスが良いのです。2016年の熊本地震でも、海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」や大型フェリーの「はくおう」といった船が、物資の輸送や宿泊・入浴・食事の提供などで活躍しました。
昨年は関東大震災から100年の節目の年でした。関東大震災は横浜港の歴史の中でも最大のピンチでした。港湾施設のほとんどが壊れ、船が近づけなくなりました。横浜は震度7を記録し、このあたり一帯は火事で燃えてしまいました。揺れと火災で壊れたり燃えたりしてしまった家屋は、横浜市全体の95%にあたる9万8900戸、死者は2万3440人にのぼりました。
このとき、震災の発生を最初に知らせたのは、横浜港に停泊していた「これや丸」という貨客船です。陸上の電信設備が使えない中、大阪などに電報を打ちました。船は長い間航海をするので自分で動くことができ、通信設備もあれば水、食料、医療機器なども備えています。生活のために必要なことを船内でなんでもできるのです。大震災発生時、港内には数10隻の船がいました。「アンドレ・ルボン」というフランスの船は1000~2000人を救助したと言われています。横浜港には食料など大量の救援物資が運び込まれ、空になった船は被災者を乗せて各地に避難させました。鉄道の東海道線の復旧には被災から20日ほどかかりましたが、船は直後から運行できて、非難する人たちを運べたのです。
復旧と教訓
港の復旧はスピーディーでした。50日後には工事がスタートし、24時間体制で進められました。港は経済を支える場所で、これがないと外国との貿易ができません。たった2年で港としての機能を取り戻し、10年で復旧工事が完了しました。赤レンガ倉庫は2棟のうち1棟の長さが短いのですが、大震災で壊れた名ごりです。横浜には今もこのような跡が見える場所、触れる場所にあります。大震災の歴史が今でも残っているのです。
日本は自然災害の多い国です。普段から災害が起きたらどうするかを考えておかなければなりません。関東大震災を教訓に、現在の横浜港ではさまざまな防災対策が取られています。本牧ふ頭には地震に負けない耐震強化岸壁という丈夫な構造の岸壁が作られました。みなとみらい地区の地下には50万人分の飲料水を備蓄できる災害用給水タンクが設けられ、いたるところに津波浸水区域の表示パネルも設置されています。
横浜港の165年の歴史の中で、関東大震災はとても大きな出来事でしたが、その救助活動には船がとても活躍しました。今でも災害時には救援物資の輸送などに船が使われています。自分たちの生活や防災に船と港が深くかかわっていることをぜひ覚えておいてください。
授業の合間には外に広がる「一番古くて一番新しい街」みなとみらい地区を眺める学生たち